nator999のブログ

今を生きる青年

障魔

急に宗教的な話になります。これは僕の人生についての話です。

抵抗のある方はすみません。

今日は、自己の生命に内在する障魔がどれほど強く、心が移ろいやすいものなのか、感じざるを得ない一日だった。

ともすればごく普通の休日である。でも心は大きく揺れていた。煩悩、怒り、臆病、保身、そして歓喜。十界を生命が駆け巡った一日である。

日蓮大聖人の御書には「この法門を説けば、必ず魔が現れる。魔が競い起こらなければ、正法とは言えないのである。『摩訶止観』第5の巻には、仏法の修行と理解が進んでくると、三障四魔が紛然として競い起こる。(中略)しかし、これに随ってはならない。恐れてはならない。これに随えば、まさに人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行すること妨げになる、と書かれている。」とある。

でも、自分が自らの精神状態を魔と気づかなければ、打ち勝つこともできない。まずは敵を知ることが大事なのである。

敵は自分の心にある煩悩(強い欲望)だった。底なしの欲望である。そしてそれを妨げられた時に起きた怒りと、一方で巻き起こっていた他人に対する恐れや臆病の心だった。傷つきたくないという保身の生命だった。そんな生命からは、希望が湧いてくるはずがない。

何度も何度も決意したではないか。必ずあの先輩に恩返しをすると。希望の青年に成長し師匠にお応えします、どうか見守っていてください、と。

師匠は、一日に何十回も決意されると言われた。それだけの生命の変革があれば、勇気・克己の一歩が積み重なれば、自分が変わらないわけがない。

モヤモヤした一日で終わるのかと思っていた中、ある先輩から電話がかかってきた。来期の人材グループの押し上げについてである。

「たとえ結果が出なくても、勝利の因を積むことはできる。今の自分は、本当に勝利の因を積んだと言い切れる自分なのか?機根に応じて人の対応は変わるのは当然だ。だがその時に自分は言い切ったのか?確かに生命を燃焼させたのか?」

目が醒める思いだった。全然できていない、でも、俺にもできる!やろう!と思った。

だがあろうことか電話を切った後、すぐさま煩悩と怒りと恐れの生命に引き戻された。仏壇に向かった。上記した御書と指導を貪るように読んだ。引用した本は以下↓

f:id:m-nakamata:20180108232318j:image

そして「元本の無明」の指導を思い出した。煩悩即菩提、無明即仏性である。師匠は、無明がある事で仏性があるのだと、そんな自分たちを温かく包み込んでくれた。

渦巻く煩悩を隠さなくていい、自己を卑下する時があってもいい。ありのままでいい。挑む気持ちを持ち続けることが大事であり、第一、偉大な師匠もそうされてきたではないか。

師匠は、「『魔と戦い続ける』ことと、『仏である』事とは、実は同じことと言っても過言ではない」とまで言われている。

絶えず、自己と戦い抜く生命の中にこそ、仏界は涌現すると言われてあるのである。

魔を魔と見破る信心の眼を持つには、題目をあげ、師匠への誓願に生きる他はない。

必ず恩返しをする!何十回も決意する一月にしようと思う。

おわり